まさに「我らが街に凱歌は響き。」絶えず発煙筒や爆竹を鳴らし、フラッグを鳴らしながら、街角街角を浦和サポーターが埋め尽くす。試合が終わって時間がたつにつれ、人がどんどん増えてくる。
路地の上からは、理髪店も会社も居酒屋も、ガッツポーズやコールするサポーターで埋まっている。降ってくるビールと声。そのまま参加する人もいる。道行く車もレッズのフラッグを掲げ、クラクションを鳴らしていた。
山瀬コール、福田コール、名取、水沼、広瀬、バイン、ブッフバルト..歴代の選手達がコールされる。
1年目から応援していた人は、干支が一回りするほど歳をとった。ギドが来たころから応援を始めた自分も、大学生だったのが三十路を越えた。
花火が切れ、発煙筒が燃え尽きても、歌声は絶えず続いていた。
動画リンクがあったので追加。
http://www.jsgoal.jp/club/2004-11/00013803.html
大麻がキマると、食べ物がとても美味しく感じ(特に甘いもの)、音楽が非常に響いて聞こえるそうな。
今日みたいに雨が降る秋の夜は、たまに聞きなれたCDが急にいろいろな音に聞こえたり、小説の1フレーズ1フレーズが妙に心に染みたりする。
飴玉やチョコレートを、少しのものを多くの時間かけて食べたり、入れたコーヒーをゆっくり飲んだり。
ちょっと脳内マリファナが出てるのかもしれない。
自分の入っている、非戦人音楽会議メーリングリストで聞いて、映画評論家のblog町山智浩アメリカ日記で読んだ話だけど、アメリカには福音派サブカルチャーというものがあって、
クリスチャン向けアイドル、
クリスチャン向けヘビメタ、
クリスチャン向けハードコアパンク、
クリスチャン向けスカ、
クリスチャン向けデスメタル、
クリスチャン向けテクノ、
クリスチャン向けギャングスタ・ラップ
なんてものがあるそうだ。
福音派というのがなんなのかよくわからないのだけど、キリスト教原理主義っぽい価値観らしい。もちろんユルい人から筋金入りまで幅があって、アメリカ人口の4割は「それっぽい」人なんだそうだ。中絶を認めないとか、ゲイ同士の結婚に反対とか。たいていはイラク戦争に賛成。
ブッシュ反対派のミュージシャン(有名なミュージシャンは、大半がそう)が反ブッシュライブ・ツアーVote For Change(変革のために投票せよ)をやっていたように、クリスチャン・ロックの大物バンドたちもRedeem the Vote(投票で贖罪せよ)というツアーをやっていたそうな。
アメリカは、こういうところがあからさまなのがなんともわかりやすくて、むしろいい。日本だと、ホームレス差別や女性差別、貧乏人差別はかなりしっかりと根付いているにも関わらず、それで成り立ってるカルチャーはなかなかないものなあ。
「巨人ナベツネ擁護評論家」
(やっぱりネットを胡散臭く思ってるのが大半でしょ?)
「すばらしい談合天下り文化礼賛ロック」
(だって、別にコネを働かせるの、嫌いな人いないでしょ?)
なんていうのは日本にはいないけど、でも、なんか税金は年々高くなって、年金はじりじり下がっていく。まるで茹で蛙のようだけど、これはどんなに人がどう考えて進んでいっているのだろう?
実は、誰も何も考えていないのかも。
ジェネオン エンタテインメント (2000/10/25)
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雨の週末、まとめて借りてきて鑑賞。
小説は昔からファンで、TV版を見たのははじめてなのだけど…かなりがっかり。小説がビートに満ちた上質のロックンロールだったとしたら、TVはロック気取りのポップスになっている感じ。「TV版ならでは」の魅力はそれほど感じられない。
小説版ウェストゲートパークは、「物語」の展開で読ませるわけではなく、キャラクターの魅力や細部の描写、展開のストーリーで読ませる作品だと思う。
独特の描写、全体に漂うシニックでありながら人間肯定的な雰囲気など、文体で「ひとつの世界」を造ってしまう作品だ。街の描写、人々の描写はそれぞれリアルで、池袋で生活している自分にとっても、「実際にありそう」と思ってしまう。ただし、出てくるキャラクターはどれも実際にいないぐらい魅力的すぎて、そこから小説的で劇的なストーリーが展開される。
画期的なアイデアと「人を巻き込む力」を持ち、あきらめずしつこく事件を追いつづけるマコト。
信じられない反射神経を持ち、氷のようにクールなG-Boysのキング・タカシ。
ストリートギャングのG-Boysもタカシの統率の下、見事な連携を見せることで、「自分の納得できるルールの中では、ワルガキでも力を発揮できる」ことを見せる。
「きっちりした社会人」のルールを持ちつつマコト達とつきあっていこうとする横山池袋警察所長。それぞれの世界観/価値観と責任のもとに動く、魅力的な「人間」だ。
ギャング同然と思われるストリートのフリーター達が、それぞれの置かれた立場とルールの中で動いていくことが小説を魅力的にしていて、シニカルな視点と人間肯定の基調を生んでいると思う。
ところがTV版で描写されるのは、舞台は池袋の街だけど、画面に写るシーンはどれもありそうに思えない。自分の住処から歩いて10分足らずのところなのに、「TVの中の風景」にしか見えない。
常に皮肉めいた視点を持ってる主人公のマコトは直情径行型の熱血ボーイになっているし、G-Boysのキングはおちゃらけたキャラクターばかりが目立つようになり、警察官はステレオタイプな悪役になっている。登場人物全員が全員が「ワルガキ」すぎるし、馬鹿すぎる。
マコトもタカシも妙にそれぞれの両親が強調されるところが、よけいに「ワルガキ」さを煽る。小説版ではタカシの両親は登場したことがない。
他のキャラクターにしても、それぞれあまりに悪いところが強調されすぎて、悪い意味で「マンガ的」すぎるし、リアリティがない。俳優のせいなのか、ディレクターや脚本が悪いのかはわからないけど、キャラクターのそれぞれに原作の魅力はほとんど残っていないし、新しい魅力が付け加えられているわけではない。(ただしマコトだけは、普通の外見だったはずが美男子になっていて、余計に物語をつまらなくしている)
小説版のマコトはそれなりに苦労しているせいか、誰に対しても「そいつの事情」を考えてしまうのだけど、TV版にはそれもない。小説版のマコトは自分の情けなさをある程度感じていて、だから「立派なこと」をしている人にはなるべく味方になろうとするのだけど、TV版にはそれもない。
タカシやマコトが、何を背負って何からは逃げているのか、彼らが大事にしている価値観は何なのか、彼らのポリシーは何なのか、どれも小説からは伺えて、TVからは見えてこない。画面の中では理不尽に問題が起こり、理不尽に解決していく。映像のスピード感はあるから、楽しく時間が過ぎてはいくけど、それだけだ。
映像のテンポはいいし、シーンのそれぞれに小ネタが散りばめられていて、見ていて飽きない。カッコいい作品だと思う。「面白いTVドラマ」を求めるならよいし、魅力的なシーンも多くて、TVドラマと言うよりはむしろ映画みたいだ。でもそれぞれ、「TVドラマにしては面白い」という話。普段まったくテレビを見ない(サッカー中継ぐらい)の自分は、役者への思い入れもない。
小説を読んだときのショックは再現されなかった。
雲泥の沙―undeinosa: リオネル・レコルベの日本観戦記
全文引用したくてたまらない、珠玉の観戦記。
サッカーファンの人はぜひご一読を。
スポーツ好きの友人とサッカーの話をしていて、また球団運営の話になり、つづいてインターネットの話になった。私のサッカー好きの友人は、ほとんどが野球も好きで両方見ている。
スポーツそのものの面白さは、洋食と和食、どちらが好きと話すのと同じで、話題にするのもばかばかしいし、野球はもうオフシーズンに入りつつあるので、プレーそのものの話をするよりも球団運営の話になることが多い。いつも「サッカー界は頑張ってるが野球はダメだ」という結論になる。
サッカーファン、というかサポーターは熱心だ。ゲートフラッグにせよ横断幕にせよ、それがポジティブであれネガティブであれ、自分の意見を常に言いつづける。
ムカついたことがあったら石を投げたりフィールドに乱入したり選手バスに生卵を投げたりするし、リスペクトするなら普段も応援するチームのグッズをつけていたりする。
野球だと、せいぜい携帯の着メロを「六甲おろし」にするぐらいだ。
この違いは何から生まれるのか?スポーツそのものの質とは関係ない、と思う。
ちょっと広めに考えて、「物事を、人を巻き込んで発展させるにはどうすればいいか」、野球やサッカーだけじゃなくて、政治にせよ自治体にせよ町おこし村おこしにせよ、「楽しくてアツく暖かい世の中になるには、何が必要なのか」と、ちょっと考えてみる。(たいていどちらも酔っ払ってるので話は広がる)
国民性とも関係ないと思う…けど、外国を見てるとたまにうらやましくなるのは、日本の何が不満なのか。多分それは「閉塞感」なんじゃないか、という話になった。
自分が考えたり動いたりすることに、何か反応があるかないか。何か反応があるものに対して、人はアツくなるし、ないものには閉塞感を感じる。一番面白いのは人間だ。
インターネットだって、結局は人間が相手のもの(blogとかオンラインゲームとか)しか流行らなくなったし、GNU/Linuxのハッカー/オープンソース精神にしても、あれはハッカー仲間どうしの贈与の精神があるから機能していて、結局は人間の産物だ。
お役所的に、何の反応も返ってこないものを相手に、人はアツくなれない。
投票率が下がる一方で、政治に対する関心がどんどん減っていくのも、この閉塞感のせい、別の言葉でいうと「何を言ってもダメさ加減」のせいじゃないだろうか。Jリーグはその意味で、サポーターの声にいろいろ試行錯誤しながら答えつづける、非常に人間味のある集団だ。
「こいつに何か言ったら、こいつはこう変わるんじゃないか」 「俺がこれを言ったら、こいつはこう反応するんじゃないか」
コミュニケーションは、お互いがお互いに与える変化の積み重ねだと思う。自分が他人の影響によって変わらなければならないから、コミュニケーションされるのはそれなりにやっかいだ。なんとなく古い「サラリーマン的」な日本社会は、「コミュニケーションをなるべく避けるにはどうするか」で成り立っているように思われる。出る杭は打たれる。
その意味でインターネットを見渡すと、流行るサイトは何かしがの変化性を持っている。常々何か変わっている。googleのように、開発者が「禅の世界に通じる」というシンプルさを持ってはいても、新しいサービスが付け加えられたり、アルゴリズムがしょっちゅう変わっていたりする。1年2年単位で、インターネットの使い方は変わっていく。3年前のインターネットは、今のネットとはだいぶ別物だ。
「メディアはメッセージである」 マーシャル・マクルーハン
この言葉は、好きなように引用されつくしているけど、彼の本そのものを読んでいる人は人は使った人の100人に1人もいない。自分だって、学生時代に多分何かは読んだけど、マクルーハンのどの本をどう読んだのかはすっかり忘れてしまっている。第3次産業の人は、ハッタリや知ったかぶりが好きだ。
インターネットはまだ、メディアとしてのメッセージ性を持っている。インターネットを使うと言うことは「何かしがのレスポンスを受け付ける」ということだ。サイトを開いていると言うことは、人からのレスポンスを待っていると言うことで、それは郵便ポストを公開しているのと変わらない。
ネットはコミュニケーションを、ご大層なものから簡単なものにしてくれた。「声をあげる」難易度は、リアルよりネットのほうがだいぶ身近だ。小田嶋さんのサイトにあるこの話(必読!)のように、
封書の手紙は、差出人が普通の人じゃないケースがけっこうある(電子メールの場合はその限りではない。ほとんどはマトモな読者からのものだ)
封書とメールでは、届く内容がだいぶ違う。
サイトが閉鎖的だと、届く数少ないメールは「それでも一言言いたい」極端なものになる。聞く耳を持たなそうな相手に話すときは、表現が激しくなる。
アメリカがイラクで行っているようなの統治活動だと、抗議はすなわち自爆テロになる。
ネットのコミュニケーションの容易性は、ちょっとずつ社会を変えている。
10年前、プロ野球とJリーグの運営に、たいした差はなかった。今は大差がある。同じことが社会のさまざまなところで出始めている。世の中を嘆かなくても良くなるときが、おそらく来ると自分は思っている。
たぶん、こんなことを書きたくなったのは、何より震災直後から新潟中越地震 被災者救援本部@2chを見ているからだと思う。
(自分もこのサイトを見て、ちょっとずつできることを始めました。)