2004年08月09日

95.レッシグ 「free culture」でのblogのあつかい,そしてセマンティックwebに見るwebの将来@

 サイバー法学者レッシグの最新刊、Free cultureを読んでいる。
 ネット上で公開されている公演日本語字幕付Flash(いずれもittousai氏提供)を見てから、ずっと楽しみにしていた。

レッシグがどういう人かは彼のblog(日本語版)にあるが、サイバー空間での権利に関してずっとわかりやすく研究してい法学者だ。
訳者の山形浩生があとがきで書いてあるとおり、これまでのレッシグの作品「CODE」に比べ、(「コモンズ」はまだ読んでない)具体的なことが中心にかかれているのでとっつきやすい。読んでる最中なので、中身がまだ頭の中で落ち着いていないけど。

この本の中で、blogについて興味深いことが書かれていた。

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「日本ではblogは主に、公開日記の形式として機能している。アメリカではまったく別の意味で、公開対話のために使っている。議論し、見方の間違っている人を批判し、政治家の意思決定を批判し、みんなの見ている問題に解決策を提案する。」(Free culture 58ページの内容を高須がアレンジ)

つまりは対立する意見のための、喧嘩腰な議論のためにblogというシステムが使われている、ということらしい。
理由は2つあって、1つめは、blogは非同期の対話を可能にするということ。2つ目は主流の商用メディアとblogの違いだ。

 まず、「非同期の対話」について。意見の相違をそれぞれ話し合って修正していくのが、そもそも民主主義の決定プロセスだけど、これ(対話..非同期の対話に対して、普通の対話のこと)にはかなり時間的・精神的・場所的コストがかかる。意見の会う人とならすぐ対話になるけど、根っから意見の違う人とだと、対話になるまでが一苦労で、場合によってはほとんど不可能に思える。
 前提条件をそろえて、用語の定義を合わせて、それぞれが「絶対的に譲れないもの」と、「場合によっては妥協可能なポイント」を洗い出して整理する必要があるし、それぞれの「言葉の綾」や「揚げ足」を取らないだけの信頼関係も作らなければいけない。たいていはその前に、相手の顔やしゃべり方やものごしが気に食わないことも多いから、この信頼関係の構築も大変だ。
 しかもそれぞれの立場によっては、本音はどうあれ言えないこと、なんてのもいっぱいある。一応は議論のプロである国会が対話にすらならず、強行採決だの牛歩だののすえに結局強引に多数決に行ってしまうことなんかは好例だ。
 blogはその手間を、非同期のコミュニケーションを行うことで解決する。それぞれは意見交換ができても、互いに顔を合わせるコストを払わなくて良い。

 もう1つの主流メディアとの違いとして、blogはアマチュアが支えているメディアであること、商業主義のメディアでないことだ。商業主義のメディアは売れ行きを気にしなければならないから、次々と新しいネタを探しつづけなければならないが、blogはそうではない。しかも同じことでも関心の多い問題を掘り下げていけば、トラックバック等でリンクが集まるから、ますます話が深まっていく。アマチュアのぶん、権威付けが足りないけど、それをコメントやトラックバック、つまりは査読が精査する。
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ここまでのレッシグのblogに対する考えを読んでいて、今興味を持っているセマンティックwebのことが思い浮かんだ。

セマンティックwebについてはいずれ詳しく書くけど、webに公開されている情報に「誰が書いた」「いつ書いた」「要約は何で題名は何」、などのさまざまな属性を追加する。属性が追加されることで、他の仕組み(多くは検索エンジンなどだ)が、「この人の書いた記事全部」などのように関連情報を収集しやすくする。

これまでのHTMLが乱雑な部屋に山積みになった本なら、セマンティックwebはきっちりと索引のついたデータベースみたいなものだ。blogは仕組みとして、更新情報をRSSで書き出したり、日時の情報を持っていたりという点でセマンティックweb的な部分を備えている。

blogの持っている「属性情報の書き出し」という部分に、レッシグの言う「対話」という部分と、「アマチュアが査読することによって情報制度を上げる」という部分が、自分の中でひとつのものとしてまとまった気がする。

Googleのようなロボット型検索エンジンは、「なるべくたくさんのサイトからリンクされているページ」を上位に表示する。
これはblogの言う査読の形を、コンピュータ的に使うもの、といえると思う。これに加えてセマンティックwebは、その情報を「誰」が「いつ」発信したか、その「誰」はこれまでどんな情報を発信してきて、「そのころ」には他にどんな情報が発信されたかを、簡単にリスト表示できるようにする。おそらくは検索エンジンの技術とかみ合って。

今はblogと検索エンジンの技術は、うまくかみ合ってない。スラッシュドットのこの2つのエントリーでも、内容そっちのけで「blogのデータが検索エンジンに出てくると邪魔だ」という話が盛り上がっている。
http://slashdot.jp/articles/03/05/13/0738247.shtml?topic=91
http://slashdot.jp/askslashdot/04/07/15/0253225.shtml?topic=91

でも、どうやら両者は融合することが可能なようだ。blogのようなコメント・トラックバックを受ける(コミュニティ的な)意見表明の仕組みと、セマンティックwebのような属性情報を付加する仕組みが組み合わさると、「その問題について、どういう議論をどんな人がしているか」をシステム的にリストアップしたり、議論の変遷を時系列で追いかけるような仕組みがシステムで実現できたりしそうだ。
 ここにはamazon.comのような協調フィルタリングの技術も絡んでくるけど、それについては別項に。

今のインターネットは見事に散漫な場になりつつある。統制の向こうにジョージ・オーウェル1984年を見るのに比べれば、今のインターネットは自由で怪しいものがいっぱいあって楽しい場ではある。でも、その散漫さが実社会に対する影響力を削いでいるのも事実だ。

 blogにしてもセマンティックwebにしても、対話(ないし情報の受け取り)を促進する技術だ。今後のネットを牽引していこうとする技術のいくつかが、同じ方向を向いているとしたら、ネットがまた面白い形で進化すると思う。

...もちろん、トラックバック先(ARTIFACT-人工事実- 人気blogの作り方を考えて実践した人 )にあるように、レッシグの言うこととはまったく別のやりかた(他メディアの紹介、意見をなるべく出さない、毎日違うネタを出す)で成功するblogもある。
また、レッシグの言う査読の文化は、まだそれほど有効に機能しているとは思えない。
(日記型のブロガーによる査読はポイントになりづらいだろうし、日記型でないblogはまだ立ち上げ期のようだ...サッカー関連を除けば)
 でも、検索エンジンは絶えず進化しているし、セマンティックwebに関してはまだ立ち上がったばっかりだ。2-3年のうちに、だいぶ変わったネットの姿が見れるかもしれない。

 

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